◼️河井寛次郎(かわい かんじろう)
河井寬次郎は大正から昭和にかけて京都を拠点に活躍した陶芸作家。陶芸のほか、彫刻、デザイン、書、詩、詞、随筆などの分野でも優れた作品を残しています。
河井寛次郎は、自分の作ったものにサインや銘をいれない作家でした。作品を「美術品」として仰々しく扱われるのも好まず、 美しいものは決して特別なものではない、という考えからのことでした。
そのため、柳宗悦や濱田庄司らと共に、日常の暮らしの品から 「用の美」を見出す「民藝運動」の中心を担っていました。
◼️略歴
1890年 8月24日島根県能義郡安来町(現安来市)出身。
1910年 松江中学校を卒業後、東京高等工業学校(現東京工業大学)窯業科に入学。
1911年 バーナードリーチの新作展を見て感銘を受け、壷を買約。
1913年 東京高等学校を卒業、京都市立陶磁器試験場に入り小森忍らの指導を受け釉薬研究、制作に励む。
1917年 陶磁器試験場を辞め清水六兵衛窯の顧問に就任。
1920年 知遇を受けていた山岡千太郎の好意もあり六兵衛の持ち窯を譲り受け、住居と窯を兼ねた工房を設け、鐘渓窯と名づけた(現河井寛次郎記念館)。
1921年 東京高島屋にて第1回創作陶磁展開催、主に中国宋、元、明、韓国李朝の手法を持った写し物を出品。
1923年 東京高島屋にて第3回創作陶磁展開催、この頃より自身の作陶に大きく疑問を抱くようになる
1925年 東京高島屋にて第5回創作陶磁展開催、このときの出品は技巧は著しく簡素化され雑器が目立つようになり、この頃より柳宋悦、浜田庄司らと共に民衆の手による工芸品を民衆陶芸と捉え「民芸」という言葉を発案。
1937年 パリ万国博覧会に出品された「鉄辰砂草花図壷」がグランプリを受賞(寛次郎の出品承諾が受けられないと察した川勝堅一が独自の計らいで自身の所蔵品から提供した作品)
1957年 1939年作「白地草花絵篇壷」がミラノトリエンナーレ展にてグランプリを受賞。
1966年 11月18日没。
◼️河井寛次郎の作品紹介
●河井寛次郎作 「黒釉三色碗」河井敏孝識
●河井寛次郎作 「呉須筒描文碗」河井敏孝識
●河井寛次郎作 「花文湯盌」河井敏孝識
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